『正法眼蔵』原文〕
いま「三世諸仏」といふは、一切諸仏なり。
行仏はすなはち三世諸仏なり。
十方諸仏、ともに三世にあらざるなし。
仏道は三世をとくに、かくのごとく説尽するなり。
いま行仏をたづぬるに、すなはち三世諸仏なり。
たとひ知有チウなりといへども、たとひ不知有フチウなりといへども、
かならず三世諸仏なる行仏なり。
〔抄私訳〕
今「三世諸仏」とは、一般には、過去は既に過ぎ、未来は未だ来ておらず、現在は今あると理解する。また、「十方諸仏」とは、東西南北四維上下においてみなそれぞれに成道(成仏得道)を唱えて衆生を教化済度されると理解する。
これは横竪オウジュ(空間・時間)の義で、三世(過去・現在・未来)を立てるのは竪(時間)の義、四方・四角は横(空間)の義である。今は、「三世諸仏といふは一切諸仏なり、行仏はすなわち三世諸仏なり。十方諸仏、ともに三世にあらざるなし」と言って、仏の上で三世を立てるのである。
東西南北というのも、中央を置いてこそ四方が立つのであるが、これは東方と言う時は全大地・全世界がみな東方で、東方でない時節はないのである。あるいは、西南北四維上下も、みな東方と同じである。東西南北の言葉もそれぞれまったく違いはないのである。
なお、「一切諸仏」といっても、それぞれの仏を「一切諸仏」と言うのではない。結局、「三世諸仏」「一切諸仏」「十方諸仏」はみな同体であり、「行仏威儀」(たった今を行ずる在りよう)なのである。一仏の上で「三世諸仏」とも「一切諸仏」とも「十方諸仏」とも言うのである。
「たとひ知有チウなりといへども、たとひ不知有フチウなりといへども、
かならず三世諸仏なる行仏なり。」とある。
「知有」「不知有」ともに「三世諸仏」の上で言い、
「行仏」(たった今を行ずること)の上で言うのである。
だから、知・不知に関わらないのである。
〔聞書私訳〕
/この処とは、必ずしも「火焔」でもない。結局、「三世諸仏」が、諸仏に在って「転大法輪」(大法輪を転ず)とも、一心に在ってとも、実相に在って「転大法輪」するとも言うことができるのである。諸仏が成仏する時、「大地と有情が同時に成道する」と言うから、普賢フケン菩薩(優れた智慧で現世のあらゆる場所で人々を救済する賢者)を説く時は「普賢の身相は虚空の如し、真に依りて住せば国土に非ず」と言うのである。
/「知有なり」とも「不知有なり」ともと言うのは、前に、「三世諸仏」は「不知有」で、「貍奴白牯」は「却知有」だと言ったが、今は「知有」「不知有」を「三世諸仏」である「行仏」と言うのである。用いられる法が一つであるから、その体もまた一つである。「不知是道」ということもある、知不知に関わらないからである。
〔『正法眼蔵』〕私訳〕
今、三世の諸仏というのは、
一切がみな諸仏であるということである。
(いま三世諸仏といふは、一切諸仏なり。)
〔我々もおのおのこの諸仏に洩れるものはない。〕
行仏(たった今を行ずること)は、その三世の諸仏である。
(行仏すなはち三世諸仏なり。)
十方の諸仏というのも、みな三世にわたらないものはない。
(十方諸仏、ともに三世にあらざるなし。)
仏道は三世を説くとき、このように説き尽くすのである。
(仏道は三世をとくに、かくのごとく説尽するなり。)
今、行仏を尋ねると、言うまでもなく三世の諸仏である。
(いま行仏をたづぬるに、すなはち三世諸仏なり。)
たとえ三世の諸仏が有ることを知っていても、
たとえ三世の諸仏が有ることを知らなくても、
みな必ず三世の諸仏である行仏(たった今を行ずること)なのである。
(たとひ知有なりといへども、たとひ不知有なりといへども、
かならず三世諸仏なる行仏なり。)
合掌
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